以前のブログでチラッと紹介した「ドーパミン中毒」という本。
読み終わって、気が向いたのでレビューを書いてみたいと思います。
依存症とくれば「アルコール」や「薬物」が真っ先に思い浮かぶんじゃないかと思いますが、本に書いてあるような「性的依存」や「摂食障害」、ついでに言えば、ランニング等の「運動」も「依存症の一種」と言えるでしょう。
マウス実験によると、あのくるくる回る「走行用車輪」にはドラッグのような効果があり、ひどいものになると死ぬまで走り続けるマウスもいるということだ。
車輪には、興奮剤となる脳内麻薬「ドーパミン」の役割もあるとのこと。
ランニングも一歩間違うと、麻薬のように「やめられなくなる」のである。
では、このような依存症から目覚めるためには、どうすればいいのか?
ポイントは「徹底的な正直さ」である。
依存的なモノを得たり、行動をするにあたり、人間は簡単にウソをつく。
そのウソは「他人」に対するものでもあるし、「自分」に対するものでもある。
例えば、「お菓子依存症」の人が、「ポテトチップス一枚だけ!」と宣言しても、そんな決心はウソとなり、一袋まるまんま食い散らかすであろう。
そんなとき、人間は「自己正当化」したくなり、「だって〇〇だったから」と、更なるウソや言い訳モードになってしまう。
まあ私も含め、人間などその程度の弱い存在だ。
某通訳に起こったことは、一歩間違えると、自分の身にも降りかかることである。
そこで重要になるのが「正直になる」ことである。
何が原因で依存行為に至ったのかを、徹底的に見つめ直す必要があるだろう。
ただ、正直になるって言っても、「そこにポテトチップスがあったから」とか「上司に怒られてむしゃくしゃしていた」とか、そういう「外部の環境や人」を原因にしてはダメだ。
何故「外部の環境や人」によって、「自分が」その行動に至ったのかを、「自分の心」を正面から見据え、正直にならんと根本的な解決にはならん。
例えば、「過食」の影には、「本当はやせたい」という「他人によく見られたい願望」が隠されているかもしれないし、「薬物」の影には、「それがなくなったら生きていけないという恐怖」があるかもしれない。
でもって、私の経験上でも言えることだが、そういう「願望」や「恐怖」がモチベーションとなる行動は「ロクな結果にならんで」ということだ。
きっと私が去年の11月に倒れるまで走り続けたのは、「よい記録を出して、ブログを読んでいる人にすげーと思われたい」っていう願望や、「走るのをやめると、走力が落ちる」という恐怖が隠されていたような気がする。
特に私は子供のころ太っていて、運動神経も鈍くバカにされていたので、「あのころには戻りたくない」という恐怖心が、余計に走ることに没頭させていたのかなあと(あと、糖質制限の食事習慣と)。
私が実際に倒れてから気づいたことは、「そういう願望や恐怖」は幻だったということだ。
その「幻」を守るために、私は依存的行為を行い続けていたのだろう。
徹底的に自分に正直になって、「幻」のために「依存行為」に至っているということに気づいていこう。
あと、本書では依存的行為をやめるために、アルコール依存症脱出の自助グループである「AA」を絶賛していたが、日本のようにキリスト教文化が根付いていなかったり、私のように集団の中で疎外感を持つような内向的な人間には、あんまり向いていなんじゃないかって気もする。
吾妻ひでおの漫画のように「AAなんて大っ嫌いだあ~」って人、結構いるんじゃないかな。
集団の力を利用するのもよいが、まずは「自分に正直」になって、「内面を整える」のが先なのかなあと。
この前、マラソンクラブの練習会で、「人生なんてサウナと水風呂を永遠に繰り返すようなもの。快楽と苦痛の間を行ったり来たりするだけ」などと、エラソーなことを走りながら語ってしまいましたが、サウナや水風呂のような外部的なモノに依存すると、「快楽と苦痛」を行き来するだけだと思うんで、自分の内部で、快楽や苦痛を超えた「至福」を見つけることが重要なんじゃないかな。
その「至福」とやらは、なんだか知らんけど、依存的物質や行為の中には存在しないと思うで。
そんな私は、今日、頭の中では「走れ走れ!」と命令しておりましたが、身体が「嫌だ!」と全身でストライキをしていたので、依存行為に至らず、休足しこの駄文を書いておりました。
基本「頭はウソつき」なので、「身体と心に正直」に生きていきましょう。
さようなら。