ゴシラン

走ることについて語ります

人生は暇つぶしのゲームです

最近、何気なくYouTubeを見ていて、妙に心に引っかかった動画がこれ。

 


www.youtube.com

 

去年の11月に、一歩間違えていたら〇んでいたかもしれない事故を経験してから、おぼろげに思っていたことが、はっきりと言語化されていて、「これだ!」と思ったものであった。

 

この動画の中に出てくる「最後は全部パー」ってのは、病棟のベッドの中でつくづく実感したものよ。

〇んでしまえば、自分の中に残るものなど何一つないんだな。

というか、自分自体が「存在しない」ものなんだなと。

 

 

んなわけで、図書館で借りてみました。

動画に出ていた「スマナサーラさん」の本。

 

過去のデータは捨てましょう

『わたしのもの』など何ひとつない

など、「いま、ここを生きる」ためのヒントが隠されていますね。

何かを目指して「バベルの塔」を積み上げようとしても、そんなものはパーになるのです。

 

私のメンター的な本として、10年ぐらい前から何度も読み返している「ニューアース」という本。

 

 

まあ、ぶっちゃけ図書館で借りたスマナサーラさんの本と似たようなことが書かれているのだが、この本の中でどうしても私が頭で理解できなかったのが、4章の最後に書かれている

 

「私の生命」なんてものはないし、私が生命を所有しているのでもない。私が生命そのものなのだ。私と生命はひとつである。

 

という文章。

 

これを読んでいる皆様も、この文を読んで「そうか!こういうことなのか!」とすぐに理解できる人は、そんなにいないんじゃないかなあ。

 

しかし、〇にそうになってからこの文を読み返してみると、「そうか!こういうことなのか!」と、すぐに実感できましたね。

頭ではいくら考えてもわからないものが、身をもって体験したことによって、身体で覚えたって感じでしょうか。

「そうか!私のものなんてものはないんだ」と、ふっと腑に落ちたような気がします。

(こんなことを書いていると、私が共〇主義になったんじゃないかと思う人もいるかもしれんが、それとは別。共〇主義も資本主義同様「モノや金」を第一に考えていることは変わらず、私が感じたのは「モノや金」を突き抜けた「何か」があるってこと。まあ、この「何か」ってのが言葉で説明できないんだがな)

 

退院してからのランニングは、ガーミンの示す数字にはあんまり興味を示さなくなってきたってのが、正直なところです。

「数字だけを目指して、より速く走りたい」って欲は、「バベルの塔」を築こうとするのとあんまり変わんないのかなあと思ったりして。

 

 

ガーミンの数字とにらめっこして走るのもいいですが、自分の身体と対話しながら、ふっと「ああ、こんなに夕焼け空ってきれいなものなのか」と、「いま、ここに気づく」ランニングライフも悪くないものだと思います。

手足の動きを観察しながら、客観的に感情や行為だけを確認する「瞑想ランニング」で、穏やかな心を形成するのも、また一つの「走る愉しみ方」なのではないでしょうか。

 

ちなみに文中に出てきた「ニューアース」という本は、観念的な記述が多く、お世辞にもわかりやすいとは言えないので、以下のサイトの解説文を見ながら読み進めていけばいいんじゃないかなあって気がします。

 

www.6rou.net

 

さようなら。