私が「林住期」という言葉を知ったのは、以下の本がきっかけです。
一時期「アフロ記者」としてニュース番組に出ていた「稲垣えみ子」さん。
本によると、「古代インド人は人生を4段階に分けて考えていた」ということだ。
その4つとは「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」である。
「学生期」「家住期」は学生から家庭をもって働いている時間である。
日本で言えば、今だと65歳までの期間でしょうか。
ポイントとなるのは「林住期」と呼ばれる期間である。
日本のサラリーマンなら、定年を過ぎ「第二の人生」を悠々過ごすという期間かもしれないが、古代インドでは、この時期に「家出」をして、世俗から離れて林に住むのである。
で、稲垣さんは「林住期」に当たるのは「50からだ!」と、50でキッパリ新聞社を退社したわけだが、「給与の高い独身新聞記者だからできるんだよね」と、半分妬みの気持ちを持ちながら、当時40半ばの私は、本を読んでいたのでありました。
「あー、金持ちはいいよね」って感じ。
(まあ、実際の稲垣さんは「金持ちの悠々自適」とは離れた、文明と距離を置いた「お金のかからないつつましい生活」を送っているのだが、詳しく書くと長くなるんで、その辺は省略)
しかし、実際私が50になると「林住期」って言葉が、だんだん身に沁みてくるのね。
特に去年、生死を分けるような事故を経験してからは、そろそろ色々なものから下りて「林住期」に入る時期が来たのではないかと。
実際、50になってから身体的なガタが目立つようになってくると、もう若いときのように仕事も遊びもできなくなってきて、「あとは若い者に任せて、精神の修業の旅に出ようか」などと、外から内へ内へと、精神のターゲットが移行していくのである。
まあ、私は元々内向的な気質があったんで、あんまり変わってないと言えば、そう言えるのかもしれないが。
走ることに関しても、40代のときは毎年フルマラソンの記録を更新し、「よし、俺は遅咲きの人間だ!50になってからどんどん記録更新してくぞ!」と思っていたものだが、今はキロ5分台で走るのも、ちょっと頑張らないとしんどいレベルである。
最近、釧路川河川敷を走りながら、あの有名な「方丈記」の書き出しが頭に浮かんでくる。
「ゆく川の流れは耐えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
私という人間も、普段見ている川のように、全体としては何も変わってないように見えるかもしれないが、細胞レベルで見ていくと、川の水が常に流れているように、中身はどんどん変化しているのだろう。
40代のころのように外側の数字だけを追うことなく、「林住期」に合った走り方を模索していきたいものです。
これができれば、世俗的な大会や記録とは離れ、また走りに違う意味を見出すことができるのかもしれない。
夏至の今日を過ぎると、日の長さは短くなっていくが、季節は本格的な夏に移り変わります。
私も身体的には衰えながらも、「人生の夏」を林住期の中に見つけていきたいと思います。
ちなみに方丈記を書いた鴨長明も、50で出家して「林住期」を過ごしたのでありました。
さようなら。