うーむ。
5月に入って気温も高くなり、身体も動くようになったんで、入院前と同じ感じで動いていたのは、やはりオーバーワークだったんだろうか。
先週の土曜日、160㎞もの距離をロードバイク進んだ翌日は、「LSD」という名目で山花温泉へ21㎞ラン。
温泉で「湯治」をして、10巻きメガソフトを食べて、のんびりバスで帰って、ゆっくり「疲労抜き」したつもりだったんだが、現状を考えると、ちっとも疲労抜きになってなかったですね。
今週は月曜からどうも重だるい感じで、水曜日にジムでトレッドミルを走っている途中に、頭がしめつけられ倒れそうな兆候が出てきたので、途中でストップ。
サウナでブラックアウトを起こす手前と言った感じでしょうか。
ふらっと、そのまま遠い世界に行ってしまいそうな感覚。
一晩寝て落ち着いたんだが、木曜の朝、6㎞の通勤ランで出勤し、午前中の業務をしているうちに具合が悪くなり、午後から早退。
横になって休んでいれば治るだろうとは思っていたが、去年倒れたこともあり、念のため脳神経外科を受診して、MRIを撮像し「異常なし」ということを確認。
医療費は高くついたが、「安心料」と割り切るしかないね。
病院から「異常なし」というお墨付きをもらって、気持ち調子も回復したんで、金曜日、ジムでトレッドミルに乗ったら、また頭がぐわんぐらんしてきたので3.5㎞で撤収。
ランはダメだけど、自転車なら大丈夫かと、今朝ロードバイクに乗ってみたが、やはり本調子には程遠く、10m/sクラスの向かい風が吹き荒れていたこともあり、16㎞で撤退。
こういうときは、漫画喫茶で休んで、身体と心を回復するに限るね。
弱虫ペダル87~88巻の杉元兄に、心底目頭が熱くなった。
手嶋もそうだったけど、「才能のないもの」は、それを認めて、プライドを捨てて努力していくしか道はないよね。
しかし、今の私はその「努力ができない」状態なのだよな。
というか、むしろ「間違った方向の努力」をしているのではないかという気もする。
久々に上の本を読み返してみたが、今週私がやってきたことは、カヌーに乗って、必死になって上流を目指していることなのかもしれない。
流れに逆らっているのである。
ランナーというのは「サブスリー」などの「目標を持ってなんとかしよう」と努力をしがちであるが、これは流れに逆らい、もがくだけの結果になるのではないだろうか。
流れに乗って、ホッとするようなリラックスした気持ちになることが、何をなすにしても大事だと思います。
「自分の本当の姿」というのは、川の上流には存在しない。
流れに従った「下流」に存在するのである。
その「下流」にある「本当の姿」を見出すのが、調子を崩している今の私にできることなのであろう。
少なくとも一週間ぐらいは、焦らずに、カヌーのオールを手放し、下流にあるものを見つける作業をしていきたいと思います。
Let it be.
さようなら。
※ 追記
こういう風に書くと、「サブスリー」などの数字の目標を持つことは悪いことだと考える人もいるかもしれんが、それが「自分の重荷」になっていないのなら、むしろいいことだと思います。
ただ、数字に縛られて、それが「呪縛」になると、いろんなことがうまく回らなくなるのではないかなと。
余談ではありますが、私が当時交際していた女性と不仲になり、結局破局を迎えたのは、マラソンのタイムが伸び始めてからです。
当時の私は(今もか?)「マラソンのタイム>>>>(超えられない壁)>>>>彼女」という優先順位になっていて、周りのことが見えなくなるぐらいに、走ることに囚われ過ぎていたのかなと。
ヘッセの小説「シッダールタ」に書いてあるように、「さぐり求めると、その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものをも見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい」のである。
目標を持つのはいいが、「それが叶ったら幸せ、そうじゃないと不幸」と、カルト宗教のように未来に救済を求めるようなことをしてはいけません。
大事なのは、常に「いま」です。