ゴシラン

走ることについて語ります

手で書くということ

3連休最終日。

いきなり職場からの呼び出しを受け出鼻をくじかれたが、業務終了後、サイクリングロードへ。

 

 

路面状況は良好で、今日も夏シューズ「HOKAクリフトン8」で走りました。

このまま春になればありがたいのだが、そうは問屋が卸さないだろう。

とりあえず、つかの間の「春路面」を満喫するようにしていこう。

 

 

イオンなどがある商業区域を過ぎると、1kmぐらいで「鹿天国」の空間となります。

北海道はそこそこ大きな街でも、ちょっと郊外に出ると自然を感じられるのはいいですな。

 

久々にガーミンさんから「休養指令」が出たので、今日は90分ジョグでおしまい(あんまり休養の意味をわかっていない)。

レースも近いが、とにかくこの時期は「怪我をしない」ことを何より優先していこう。

どうしても寒いと筋肉が固まって、怪我をしやすくなるからな。

 

 

ランニング日記はTwitterでのつぶやきだけではなく、ノートにも手書きで書いています。

10年ぐらい前にメンタルの調子を崩したとき、治療の一環として、手書きの日記をつけていたが、手で書くことによって、キーボードでブログの文章を打つよりも、より深い内面に走っていくことができ、自分を客観的に見つめられるような気がします。

そのときの日記は、後日、寛解後に読み返して、「あかん、あんときの俺狂っていた」と、顔から日が出るぐらいの恥ずかしさを感じ、「こんな黒歴史はポイだ!」と捨ててしまったがな。

(こういう性格だから、メンタルの調子を崩しやすい)

 

書く内容は、体の動かし方とか感覚とか、そういったフォームに関することが多いですね。

あんまり私は数字は気にしません。

強いて言えば「数字と感覚のズレ」を気にします。

手で書くことによって、自分の心や身体との対話をするって感じです。

 

手書きは、精神状態による字の乱れが出たり、コピペや消去が思うようにできないんで、文章の構成がPCでタイプするよりも難しいところがありますな。

逆に言えば、いくらでも簡単に修正を加えることができるタイピングよりも、手で書くことで、「本物の自分」が浮き出るところはあると思います。

文字だけでは表せない「行間の情報」は、PCやスマホの画面越しよりも、手書きのノートの方が読み取りやすいですね。

現在の「デジタル全盛」の時代だからこそ、こうした「アナログ」の部分を生活の中に残しておきたいものです。

人間は「デジタル」のロボットではなく、繊細な「アナログ」の存在なのですから。

 

図書館で面白そうな本があったので、借りてみました。

 

 

山﨑浩子さんと言えば、私の世代では「新体操の選手」というよりは「クイズダービー」や「統○教会」というイメージの方が強いですね。

それはさておき、「筋肉に頼らない」ランニングを目指す私としては、どんな内容なのか、ちょっと気になるところです。

こういう「走ること」と直接関係のないことは、タイムを縮めるためには遠回りに感じるかもしれませんが、私が本当に目指しているのは「目先のサブスリー」ではなく、「70になっても道マラやサロマで、余裕を持って制限時間内に走れる」ことです。

そのために必要なのは、力任せで筋肉をいじめるのではなく、筋肉に負担をかけない「正しい身体の使い方」にあると思います。

70〜80でも思うように身体を動かせる「土台」を今からしっかり作っておき、武術研究者の甲野善紀氏のように「70を過ぎた今が、人生で一番体が動く」と言えるようになりたいものです。

 

さようなら。