ゴシラン

走ることについて語ります

陰キャとマラソン

私はまごうことなき「陰キャ」である。

以前交際していた女性に「コミュ障」とののしられ、「ああ、僕にはこういうの根本的に向いていないんだ」と、女性との交際に興味をなくした私であります。

 

そんな「陰キャ」の教科書とも言える本がこれ。

 

 

昔は「陽キャじゃない自分はダメ人間なんじゃないか」と、明るくふるまうフリをしようと必死になっていたが、どうもそういうのは向いていない、というか「一人が一番落ち着く」ということに気づいてから、無理して「友達100人作ろう」などという無駄な努力はやめることにした。

世の中、ワイワイやるのが好きな人と、一人でおとなしく過ごすことが好きな人との棲み分けができていればいいんじゃないかと思う。

 

筆者はYouTuberとして有名なようだが、私は彼のYouTubeを見たことがない。

しかし、彼の本を読むと「おお、こんな思っていることを、はっきり本に書いていいんだ!」とphaさんの本を初めて読んだときのような衝撃を受けた。

 

 

特に「大学生活の孤独エピソード」には、凄味すら感じる。

ネットがなかった私の学生時代、「情報戦」と言われる、大学の定期試験やレポートには、友達の存在が必須で、「過去問過去レポ」の入手ルートがないと卒業は不可能なんじゃないかと思っていた。

ところが、筆者はネットを駆使して、「友達ゼロ」で、定期試験やレポートをクリアして、卒業したのだから大したものである。

私ですら、5人ぐらいの仲良かった人はいたからな。

今は全く連絡とってないけど。

 

ただ、筆者も触れているが、人間「全か無か」ということはなく、あくまで「自分は陰キャ的傾向がある」という存在であり、「俺は陰キャだから、こう行動するんだ!」と決めつけるのはよくないと思う。

誰もが程度の違いこそあれ、「陰キャ」と「陽キャ」の両側面を持ち合わせているのである。

まあ、そのときそのときの気分に合わせて、あまり「他人を気にせず」、好きなように行動するのがよろしいのではないでしょうか。

 

 

さて、そんなコスメティック田中氏の本の中で、私に刺さったのはこのフレーズ。

 

”溜飲が下がる陰語録”より

 

チマチマして「自分、追い抜いちゃってますけど?」みたいのが陰キャの生きるモチベーション。

 

《ご本人の解説》

 

幸せを追求する人もいるんでしょうけど、陰キャは勝ち負けが基準になってますから。学生時代負けてたんだから、どこかで勝たなければおかしいだろって。チマチマとやる気すらない人は落ちていったりするので、そういうときにやっと優越感を抱けるんですよね。

 

 

正に私がマラソンに夢中になっている理由は、そこにあるんだなと。

子供のころ「運動音痴」で、体育の時間に培ってきた「運動コンプレックス」を解消するために(ちなみに高校時代のマラソン大会は下位5%ぐらいに入っていた)、「チマチマ」と一人で取り組みことができ、タイムという数字で「勝ち負け」がはっきりする「マラソン」という競技は、陰キャとの相性がいいのではないかと。

 

ちなみに私は、マラソン大会のリザルトで、「運動部で陽キャ」の高校時代の同級生が私よりもタイムが悪いのを見て、「勝った!」とほくそ笑むぐらいに、人としての器が小さい人間です。

 

今日も私はかつての「陽キャ」に勝つために、走り続けるのであった。

 

さようなら。