ゴシラン

走ることについて語ります

やってのける(「証明型」と「習得型」)

できない人ができるようになるためには、「できる人のマネをすること」だと思っている私です。

 

ということで、10月の「壱岐ウルトラマラソン」は、どんなずるいことをしてでも正々堂々と完走したいと思っている私は、「東大卒のウルトラランナー」小谷修平さんを見習うことにしてみました。

小谷さんは、24時間走の元日本代表で256㎞という、ここまで来るとすごいのかどうかもよくわからない、とんでもない記録を持っています。

某チャリティー番組の約2.5倍の距離を同じ時間で走っているわけだからな。

 

holosrc.com

 

できる人の練習方法は、そのままマネすることはできないが、せめて「心構え」ぐらいはマネできるだろうと、まずは小谷さんおススメの本を読んでみました。

それがタイトルの「やってのける」。

 

 

この手の意志力を鍛えることをテーマにした「自己啓発本」は、若いころから何冊も読んできたが、結局、本を読んでいるうちは「うん、そうそう。その通り」と納得はする。

じゃあ、本に書かれていることを実行するかというと、決してそんなことはなく、いつの間にか「やる気を出す10の方法(タイトルはテキトー)」などの本は、そのままホコリをかぶり、ブックオフに引き取られる運命にあるのだった。

 

なんだかんだでこの本も、今まで読んできた本の単なる焼き直しだろうと思っていたが、「ほうほう、なるほどなあ」と思う新たな発見もある。

それがタイトルにある「証明型」と「習得型」という概念である。

 

さて、目標を立てるとき、それが一体なにを目指して立てられた目標なのかということを、自分の心に正直になって考えよう。

例えば、フルマラソンで「サブスリー」を目指すとする。

 

その「サブスリー」という目標は、「周りに認められたい」ということを重視している「証明型」の目標なのか?

それとも、他人の承認とは関係なく、「成長や進歩、技能の習得」を重視している「習得型」の目標なのか?

 

「証明型」の目標は、順調なときは目標に向かって邁進することができ、高いパフォーマンスを示すことができるが、一旦、逆境に陥ると「努力しても無意味ではないか」と、一気にモチベーションが低下していくという問題があると、筆者は指摘しています。

とどのつまり、「別にやっていることは自分の好きなことではなく。ただ、人にすげえと思われたい」というのが根底にあるために、「うまく行かない。じゃあ、やーめた。他の自分に向いていそうなことで、他人に認めてもらおう」となってしまうのだと思うのです。

 

それに対して「習得型」の場合は、「他人に認められようが、そうでなかろうが、自分がやっていることを純粋に上達させたい。深く理解したい」と思っているので、失敗しようが、結果が出なかろうが、トラブルが起ころうが、「その問題を乗り越える行動ができる」と筆者は述べています。

本には書かれていませんが、エジソンなんかは「習得型」の目標を持って行動した典型例と言えるでしょう。

電球の発明のために、色々な材質のフィラメントを試して、何度失敗しても

失敗ではない。うまく行かないための1万通りの方法を発見したのだ

と、ポジティブな気持ちを持ち続けられたのは、ただ「他人に認められたい」というだけのモチベーションではできないでしょう。

「深く探求したい」という「習得型」の目標が、大きな目標を達成するためには必要なのかもしれません。

 

振り返ってみると、私が今まで達成することができなかった目標というのは、きっと「証明型」の目標だったんだろうなあと。

 

「人がうらやましいと思うような異性と付き合いたい」

「誰もが『おおっ』と思うような職業に就きたい」

 

そんな薄っぺらいペラペラの目標など、「本当に自分がやりたいことではない」のだから、到底達成できるはずなどないのである。

多分、「フルマラソンサブスリー」も「証明型」の動機が奥底にあるんで、いつまでたっても達成できないのかあなどと思ったりして。

普段の練習で、キロ4分15秒で走り続けることがちっとも好きでないのに(というか、今はそもそもそういう練習すらしていない)、サブスリーを目指すなんて、ちゃんちゃらおかしいんじゃないかと。

 

目標を立てるときは「人に認められたい」ということをベースにするのではなく、「どうやったらできるのか?」ということをベースにしていく「習得型」を目指していこう。

10月の壱岐に向けて、暑い激坂コースをどうやったら攻略できるのか?

サロマでの失敗を糧にして、楽しみながら課題を改善し、他人の目を気にすることなく、自分なりの成功を手につかんでいこうではないか!

 

以上、”「習得型」のすすめ”の時間でした。

 

さようなら。