私が「狂気のライター」patoさんの存在を知ったのは、以下の記事がきっかけである。
「ローカル線」と、ウルトラマラソン等の「身体を張ったアホみたいに長い距離の移動」が大好きな私は、この長~い文章を一気に読んで以来、すっかりpatoさんのファンになってしまった。
特に予想の斜め上を行くストーリー展開と文体が素晴らしく、ネット上でpatoさんの記事が公開されるのを心待ちにしていたものよ。
しかし、飽きっぽい私は、最近patoさんの記事がネットで公開されても、「うーん、長くて読むに時間かかるし、別にいいか」と、すっかり「patoワールド」からご無沙汰していた。
そんな私を再び「patoワールド」にいざなってくれたのが、拙ブログの読者でもあるちょびさん(ちょび (id:chobi_chobi))の存在である。
一応私はブログは書いているが、特に「バスりたい」とかそういう願望はなく、「わかる人だけわかればいいや」という気分で、テキトーに記事を書き散らかしている。
よって、文章術について書かれているこの本を、「どうせ俺には関係ないし」とスルーしていた。
でも、私と嗜好が似ている(と、勝手に思っている)ちょびさんが激押しの一冊だしなあ。
きっと何か私の琴線に触れるものがあるのではないかと、kindleでポチリしてしまいました。
本屋で買う紙の本ではなくて、家でも手に入る電子書籍というところに、「そこまで本気で読みたい本ではなかった」ということを分かってくれるとうれしい。
さて、一気読みした感想。
やはりpatoワールドはよい!
…で、終わりってのも何なので、何がよかったのかということも書いていきましょう。
「人はなぜ文章を書くのか?」
こんなことは今まで考えたこともなかった。
ただ、おぼろげに思っていることは「ネット上の神」として降臨して「俺様の意見にひれ伏せ!」という気持ちはサラサラなく、「口下手な私が、一個人のマイノリティな考えを伝えて、それが同じマイノリティの誰かの琴線に触れればうれしいかな」程度の気持ちである。
では、ここで改めて考えよう。
「私は自分の考えを伝える努力はしたか?」
答えはもちろん「No」である。
伝える努力もせずに、テキトーに書き散らかした文章は、当然「伝わらない」わけで、「誰かの琴線に触れる」などということはありえないだろう。
まずは「伝える」という作業が大事なのである。
あんまり書くとネタバレになるので、さわりだけサラッと書くと、「伝える」ためにpatoさんが大事だと思っていることが「客観化」。
この視点が欠けていると「内輪ウケ」に走った文章になってしまうと。
確かにそうだなあ。
ランナーブログでよくあるんだが、「〇〇さんや××さんの応援のおかげでうんたらかんたら」とか書かれていると、ひねくれた私は
その情報いる?
と、思ってしまうのである。
「てゆうか、〇〇さんや××さんって誰よ?」と。
そういう一般には知らない人を出して、読む人に疎外感を与えるのはよくないなあと、自戒もこめて思うわけであります。
伝える努力をするなら、〇〇さんがどういう人物かということを、一言添える必要があるのではないかと。
さて、「客観化」することによって、誰にでも理解できる「伝わりやすい」文章を書くことができました。
しかし、客観化も度が過ぎると、新聞記事や学生実験レポートのような「事実だけ」が書かれた、「心の伝わらない」文章になってしまう。
そこで登場するのが、本のタイトルにもある
感情
だ。
私なりの解釈で言い換えると、「自分の心の中に沸き立つマグマ」だ。
このふつふつと沸き立っているアツアツの「マグマ」を、きちんと「気づきや観察」という「客観化」のフィルターを通して冷やして、一般の人に伝わるレベルの熱量にしていくのが、文章を書く人の「腕の見せ所」といってもいいだろう。
言い換えると
「熱すぎても、冷めすぎても、文章は他人に伝わらない」
ということだ。
文章術というと、「誰かの本を読んで、外から身につけるもの」と考えている人もいるかもしれないが、そんな「借り物の文体」で「マグマ」のないものは、人には伝わらない。
いや、文意は人に伝わるかもしれないが、その文章の持つ「情熱」、並びにその文章を書いた人の「人柄」は伝わらない。
技巧だけの文章は、人の心を動かさないのである。
まずは「伝えたい」という「自分の中のマグマ」を大事にし、「じゃあ、どうすれば伝わる文章が書けるのか」ということを、頭を振り絞って考え、そっから「客観化」で、あーでもないこーでもないと、もがきながら修正し、それを何度も繰り返すしか、文章が上達する道はない。
「伝わる」文章を書くというのは、実は子供を産むように苦しい作業なのである。
産んだことないから知らんけど。
「バズりたい」という気持ちだけでは、「バズる」文章は書けない。
まずは外部の評価よりも、自分が「伝えたい」と思う対象を見つけていこう。
そして、一回「伝えたい」と思ったら、あとは伝わるためにどうすればいいのか。
好きな子にラブレターを書くような気持ちで、「どうすれば俺の愛が伝わるんだ?」と、相手の気持ちになって、アホみたいに考え工夫しながら文章を書いていこうではないか。
「伝わる」文章を書くには、「ストーカーにならない程度の熱量」が必要なのである。
(ストーカーは単なる自己愛であり、「読み手の気持ちを考えない文章書き」と同じである)
うむ、いつもは30分程度でテキトーに一記事を書くこのブログであるが、久々に「どうすれば伝わるんだ」と考えながら、2時間以上かけて文章を書いてしまった。
この気持ちが、誰かに「伝わる」ということを願ってやまない現在の私です。
そして、こうした気持ちを思い出させてくれたちょびさんとpatoさんには、心より感謝申し上げます。
さようなら。