ゴシラン

走ることについて語ります

「目的」と「目標」

7月開催予定の函館マラソンも中止が発表され、今年も「マラソン大会中止ラッシュ」が続きますね。

 

hakodate-marathon.jp

 

私が住んでいる道東でも、すでに7月の「なかしべつ330°開陽台マラソン」と9月の「釧路湿原ラソン」の中止が発表されています。

今のところ、9月の「オホーツク網走マラソン」と10月の「別海町パイロットマラソン」の開催可否については明らかにされていませんが、今の状況が続くと、今年も公道を使う大規模なマラソン大会の開催は厳しそうですね。

 

こういう状況が続くと、ランナーとしては「モチベーションの維持」をどうするかが問題になってくると思います。

「大会もないし、真面目に走ってらんねーよ!」と思われる方も多いのではないでしょうか。

 

では、ここで自分の胸にたずねて見ましょう。

 

「マラソン大会」は「目的」なのか「目標」なのか?

 

ということを。 

  

ぼくたちは習慣で、できている。

ぼくたちは習慣で、できている。

 

 

図書館で借りた本で、”「目的」と「目標」をごっちゃにしない”というフレーズが印象に残った。

そう、マラソン大会はあくまで走るための「目標」であって、それ自体が「目的」ではないのである。

 

「大会」やタイムなどの「数字」という「外部のもの」を「目的」にしてしまうと、そのモノサシとなる外部のものがなくなったときに、「あれ、自分はなんでこんなことしてるんだっけ?」と、糸の切れた凧のようになってしまうのではないでしょうか?

 

私の場合だと、古くは大学受験のとき、とにかく第一志望校に受かればいいと、完全に受験を「目的化」してしまったので、一旦合格したら「もういいや」と一秒も勉強しない堕落した学生となり、ポンコツサラリーマンである現在に至ってしまったのである。

あと、一時期ボウリングに凝っていたこともあったが、ある日偶然「200点」というスコアを叩き出して、「もういいか」と、それ以来自分から進んでボウリングをしようとは一切思わなくなってしまった。

多分、ボウリングそれ自体が楽しかったのではなく、数字を追い求めるのが楽しかっただけなんだろうなあ。

 

プロゲーマーの梅原大吾さんが、ゲームをすることの目的は「成長し続ける」ことで「大会に勝つこと」でないということだ。

勝つことを目的にしてしまうと、燃え尽きてしまうと。

 

つーことで、まとめると、「自分の外側(モノとか地位とかお金とか異性とかマラソンのタイムとか)」に目的を設定すると、その「外部要因」が崩れたときに自分を見失うで。

あくまで外側のものは「目標」であり「目的」ではないのです。

常に「自分の内側」に火を燃やし続ければ、それなりに人生楽しめるんじゃないでしょうかというお話でした。

 

自分の内側が燃えるものを細々と長くやっていきたいものです。

 

さようなら。