「うつうつ日記」の続きです。
特に何をどうしたいのかという明確な目的はなかったが、気がつけば、11月半ばの日曜の朝、教会に向けて車を走らせていた私だった。
休職してから1ヶ月半ぐらい、家族以外と会話することがなく、そろそろ社会的な「つながり」を求めていたのかもしれない。
閉鎖的になっていた心を、解放したかったのかもなあ。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイの福音書 11章28~30節)
「うつ」という重荷が、私を教会に向かわせたのでしょうか?
数少ない知っている聖書の言葉が、ぐるぐると頭をめぐっておりました。
さて、教会の前に着いたはいいが、人見知りで初めてのところが苦手というか、恐怖にすら感じる傾向のある私。
「宗教=洗脳」というイメージがあり、「ここは新興宗教ではない、普通のプロテスタントの教会だから大丈夫だろう」とは思うのだが、私も含め、ノンクリスチャンの日本人は「キリスト教=閉鎖的でちょっと近寄りがたい」という偏見を持ってるから、しょうがないね。
求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
(マタイの福音書 7章7節)
ええい、門の前で立ち尽くしても、どうしようもない。
まずは、門をたたいて、中に入ってみないことには、始まらないじゃないか。
ということで、思い切って、中に入ってみると、牧師さんがものすごく温かく迎えてくださった。
「12年前に一緒にゴスペルをやっていた」ということを言うと、ものすごく嬉しそうな表情をしてくださり、「ああ、来てよかったんだ」と、心底ほっとした私だった。
10人程度の少人数の場であったが、皆様、穏やかで温かく、会堂に入っても全然違和感がなかった。
木造建築の美しい建物で、フランダースの犬の最終回を思い出すような、清らかな空間であった。
さて、初めての教会ということで、受付で名前を書いて、聖書を貸してもらい、テキトーな席に着席した。
10時から礼拝が始まり、讃美歌を歌う。
讃美歌の歌詞はスクリーンに出てくるし、周りの人に合わせれば、なんとなく歌える感じです。
んで、何曲か讃美歌を歌ったら、挨拶がてら、周りの皆様と握手します。
ああ、今日は皆様とご一緒に賛美することができて、感謝しています。
その後は、説教という名の牧師さんのお話があり(この日は系列教会の礼拝が、スクリーン上に流れていた)、献金しておしまいという感じだったでしょうか。
神社でお賽銭を投げるよりも、私にとっては神聖な感じがしました。
で、礼拝が終わった後、牧師さんに「病気が治りますように」と、お祈りをしてもらい、きっとこれからよくなるに違いないと、科学的には全く根拠のない光が見えた。
特に入信を勧められるとか、壺を買うまで帰してくれないとか、そういうことは全くなく、極めて友好的で平和な2時間を過ごしたのであった。
「こんないいところなら、また行こう」と、新しい価値観に触れた時間だった。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。
(テサロニケ人への手紙 第一 5章16節)
うつうつしている現実には変わりないが、残りの療養期間「喜び、感謝する」時間にしていこうではないか、恐怖や不安はゴミ箱にポイなのだ。
(つづく)