ゴシラン

走ることについて語ります

全ては「無」なのだろうか

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2年前にロードバイク事故で、一歩間違えていたら命が失われていたかもしれなかった私。

 

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まさか、また交通事故という形で、同じような経験をするとは思ってもいませんでした。

人生の危機を経験して、「この2つの事故には、何か意味があるのか?」とも思ったりするが、きっと意味などは何もないのだろう。

神様の考えていることなど、私のような凡人にはわからず、テキトーにしか思えないこともあるのだ。

あんまり深刻に考えず、生かされている今を、それなりに生きていくしかないわけで。

 

ただ、2回倒れて、私の中で確信したことはありますね。

それは

 

「〇ぬのは怖くない」

「〇んだら、ただ『無』である」

 

と言うことだ。

 

2回とも肝心なときの記憶は全くなかったのよ。

今回は車が突っ込んできたときに「ヤバい!」とは感じたが、恐怖を感じるまでもなく、意識が戻ったときは「あ、助かった」という安堵感だけで、それ以外の感情は一切なし。

きっと〇ぬ直前も、「恐怖」という感覚はなく、先月、全身麻酔で眠らされたときのように、「無」の世界へと旅立つのだろう。

「〇ぬこと自体が怖い」のではなく、「そこに至るまでの苦痛」が怖いのではないだろうか。

 

 

入院中に読んでいた電子書籍

「自分とか、ないから」っていう仏教や老荘思想が身に沁みましたね。

特に「他力」の親鸞の思想には共感した。

今回の事故は、相手が悪いとか、自分が悪いとかそういうことはなく、たまたまそうなってしまっただけ

歎異抄第13章に書かれているように、そういう「縁」だから、そうなってしまったのでしょう。

 

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし

「そうなるべき縁があれば、どのような振る舞いでもしてしまうのが私です」

 

臨死体験をした人は、「もう〇ぬのは怖くない」という感想を持たれることが多いようですが、総理大臣も大金持ちもコジキも、「〇んだら全ては無になる」と思えば、「この世はテレビゲームのようなもので、〇ぬことはゲームオーバーになるが、リセットボタンを押せばまた生き返る」ぐらいに感じられるのではないでしょうか。

 

まだ、右腕はあまり動かず、左手だけでこの文章を打っている私ですが、せっかく与えられた機会ですので、もう少し人生という名のゲームを楽しみたいと思います。

 

南無阿弥陀仏