顔面の骨を折ったということで、今週一週間は「ランオフ」に徹しました。
まあ、5月中は走るのは無理でしょう。
この「強制休養期間」を良い意味での「充電期間」にしていきたいものですね。
走るのはNGの私ですが、「着地衝撃の少ない散歩は、患部への血流もよくなるのでOK」と、お医者さんから許可が出ましたので、今日は無駄に2時間ほど散歩しておりました。
すでに25度以上の夏日を迎えているところもありますが、こちらは朝から霧がかかり、安定の涼しさというか寒さです。
釧路の桜もかなり散りましたが、まだしぶとく花を咲かせている「エゾヤマザクラ」もありましたね。
霧の春採湖へ。
駅から車で約10分のところに、鹿が走り回っているのが「道東クオリティ」です。
もう鹿やキツネぐらいじゃあ、驚きませんよ。
「エゾヤマザクラ」の季節は終わり、濃いピンクの「八重桜」が、ちょぼちょぼ花開いてきましたね。
これから約一週間、今度は八重桜の季節になり、これが散ったら、ようやく釧路にも初夏がやってくる感じかな。
まあ、初夏と言っても、最高気温20度行くか行かないか程度で、朝晩寒いのはあんまり変わんないんだが。
療養期間は読書がはかどりますね。
若いころ「フェルランニング」(オフロードで高地を走り、勾配によって難易度が変わる競技)をやっていた62歳の筆者が、ドキュメンタリータッチで、「世界マスターズ陸上大会」に参加するまでの過程や、実際のレースの模様を記しています。
「記録的にピークを過ぎた50歳以上のランナー必読の書」と思うぐらい、グイグイと「人生終盤のランニングの世界」に惹き込まれた私でしたが、特に24章の内容に「これだ!」と来るものがありましたね。
大学の哲学教授であり優秀なランナーであったカーグ氏。
私生活を犠牲にしてまでも、走ることに取りつかれたようになり、ある日トレッドミルで走っていたところ、転機を迎えます。
ガーグ氏は、ランニング中に倒れ、意識を失い、心停止状態にまでなってしまいました。
そこから、奇跡的に命を取り留め、カーグ氏は気づいたわけです。
「俺って、人生の大事なことに目を背けて、ランニングに逃げているのではないか?」
と。
この辺りは、2年前にロードバイクに乗ってたときに倒れて、救急車で運ばれた私に通じるものがありますね。
今もそうかもしれんが、あのときの私も、人生から目を背けて、「より速く、より遠くまで走るにはどうすればいいんだ?」ってことばっかり考えていて、ランニングを「逃避」の道具に使っていたのだと思います。
極端な考えかもしれんが、どんなにランニングでよい数字を出そうとも、すべての人に待っているのは、年齢に対する敗北であり、死である。
ついつい、マラソンの記録が伸びてくると、その高揚感で自分を見失ったり、「走らないと記録が落ちる」と、不安や恐怖に駆られたりすることもあるが、それで「走ることに逃げる」というのは避けなければならない。
ランナーにとって、マラソン大会は人生を豊かにするための手段であり、目的になってはいけないのである。
サマセット・モームが小説で書いたように
「人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ」
「人生の意味など、そんなものは、なにもない」
のである。
「人生に意味がない」ということは、逆に言えば「人生とは自由」だと言うこと。
他人の価値観に吞まれないように、しっかりと「今」「ここ」を「逃げずに」走っていこう。
そのときの「感謝」「冒険」「発見」を大切にしながら。
さようなら。