ゴシラン

走ることについて語ります

2024 9/29~10/5 ランニング週記

網走で「サブ4.5」まで走力を戻して、「よっしゃ!これからだ!」と思って、ろくにオフを入れずに動き続けていたら、やはり反動が来ましたね。

そろそろ、自分の身体の扱い方を覚えてもいいんじゃないか?オレ。

 

 

とりあえず、今のところは「軽い倦怠感」「頭にかすみがかかるようなブレインフォグ少々」「味覚がイマイチ」というところで、特に日常生活に支障があるところまでは行ってないので、「無理せず休む」が優先だな。

もう今年はフルマラソンを走ることもないので、この辺で少し心身ともにゆっくりしよう。

しかし、この症状、まるで「コロナの後遺症」みたいだが、ワシ知らんうちにかかっていたのだろうか?

 

 

今日はちょい風が強いが、天気もよく、気温も暑くも寒くもなく、絶好のラン日和であったが、肝心の私の調子がイマイチで15㎞の予定が、12㎞で終了。

3ヶ月前なら無理して15㎞突っ走っていたと思うが、途中でやめたのが進歩と言えば進歩なのかもしれない。

 

 

網走マラソンでもらった参加賞のカレンダーは、自室の机の前に貼って、有効活用しております。

ご覧の通り、毎日の走行距離をメモできるようになっており、これを眺めていると「うぉー、もっと走らないと!」と焦る気持ちになるのが、今の私にはよくないかもしれない。

仕事の都合もあり、来年の網走マラソンに出るかどうかは今のところわからんが、来年の大会までは、毎日コイツを見ながら、走ることに対するモチベーションを保っていこう。

 

去年の11月に倒れてから退院したときは、「時間さえかければ、元のように走れるようになる」と楽観視しておりましたが、1年近くたっても体調に波がある状態は変わりませんな。

「もうずっと、このままの状態から復活しないのではないか」と不安になるときもあるが、冷静に考えると、まだ年に2本制限時間以内にフルマラソン走れる体力は残っているんだから、悲観的になる必要はないでしょう。

自分をいたわりながら、今できることを今できるようにやっていきましょう。

変なあこがれで自分を縛ると、それが「呪い」となることもあるのだ。

 

 

最近読んで、「はっ」と思ったのがこの本。

 

去年倒れる前までは「フルマラソンサブスリー」とか「山岳100マイルレース完走」とか、そういう「形に残るもの」にあこがれを持っていた私でしたが、「それを手に入れることは私に何をもたらすだろうか?」ということを、じっくり自問自答することはありませんでした。

 

もしその答えが、「そうしたら私は心の平安を得て、ゆっくり休息できる」というものだとしたら、実はそれは今この瞬間に可能なのです。

 

という本の中のフレーズに「はっ」としましたね。

「マラソンの記録」という「外側」のものには、心の平安、休息はなく、自分の内面に「すでにここにある」のが、「外側」にあると思って追い続けてきた平安や休息なのです。

 

そういや、10年ぐらい前「フルマラソンサブフォーを達成すれば幸せ。もう思い残すことはない」と思っていたものが、いざ達成すると、更なる数字への「無間地獄」が始まったんだよな。

「外にある数字」という「うつろいやすいもの」に安定を求めているうちは、いつまで経ってもそれを追い求めることになるのであろう。

これはマラソンのタイムだけではなく、お金にも当てはまることだと思う。

 

幸か不幸か、体調を崩し気味の今。

内面に何があるのかということを探求するには、いい機会なのかもしれない。

自分の求めているものは、「まだ見ぬ外」にあるのではなく、「自分の内に眠っている」ということに気づく日々を過ごしていこう。

それでやっぱ「走るのやーめた」と思うようになってしまったら、それはそれで自分にとって幸せな人生ではないのでしょうか。

 

と、なんか今日は哲学的内省的な文章になってしまいました。

まあ体調が戻れば、またいつものような頭の中身に戻って、同じようなことを繰り返して生きていくのだろう。

多分、それが私という人間の本質なのかもしれない。

 

さようなら。